私が人間関係うまくいかなかったわけ【苦しい人生から脱却するには】
私は常々悩んでいました。
「なぜ私は性格が極悪というわけでもなく、顔もかわいいし頭もいいのに人間関係がうまくいかず、友達も少ないんだろう…」
と(バカなやつ、と思うだろうけど本当にこう思ってました)
しかし最近ただ生きているだけで苦しい、生きていること自体苦しい、てくらい苦しんでようやく、今まで何がどうして苦しかったのか、メカニズムが見えてきたので発表します。
一番大きい気づきは私は人間関係を築くのが苦手なんじゃない、人間関係を安定して続けることが死ぬほど苦手だったんだ、ということです。
私は人と仲良くなったり関係がうまくいくと無意識に「この関係を維持しなきゃ!」とプレッシャーをかけ、「何か失敗して嫌われてしまうのでは」「(私の言動のせいで)いつか相手が離れていってしまうのでは」という不安と恐怖に襲われるんですね…
なので関係を維持するために常に頑張らないといけないと思っているし(人の顔色をうかがって行動)、人に優しくされればされるほど不安が増すし、距離が近づけば近づくほどに逃げ出したくなる。地獄か。
いつも職場での人間関係がだんだんしんどくなり、転職を繰り返すのもここら辺が影響していたと思います。
で、そのしんどさから逃れるにはどうしたらいいのか。
そうです、人と親しくならず関係を続けず切り捨ててしまえばいいのです!
耐えられなくなると、あるいはささいなきっかけ(話しかけたのに返事が無いとか)で人との関係をばっさり切ってはその苦しさから逃れていました。そうするとウソみたいに楽になるし。
今まで何人「関係を続けなくていいカテゴリー」に入れて自ら離れていったことか(一度カテゴライズした人とは仲良くしようという努力を一切放棄)
本当にすみません。でもそうでもしなければ心の平穏を保てなかったんです。
そうやって自分の心の平穏を保った先に待っていたのは
途方もない孤独や不安、虚無と絶望でした。死にたいね!
人といると辛くてしんどい、でも一人でいるのも孤独で死にそう、て行くも地獄、戻るも地獄、どこへいっても地獄やないかい!そりゃ人生行き詰まるわ。
そこから抜け出すためには過去の傷ついた体験に基づく「自分の考え」に気づき、脱却する必要があるんでしょう(人は怖い、すぐに嫌われる、自分は愛される価値が無い、存在価値が無い、等の考えが自分の行動を支配していることに気づく)
そして自分が本当に望む未来に向かって歩みだす必要があるのでしょう。
人と関わるとき感じる不安や苦しみ(過去の記憶)を乗り越えてなければ、私の人生はずっと苦しいものになってしまう。幸せが遠のいてしまう。
今のところ不安なく付き合えるのは私が何をやっても離れていかない人(家族とかごく少し)か、自分から仲良くなりたい、好きだと思った人(少ないけどいる)くらいです。
その人たちがいなかったら今頃発狂、自殺してましたね。ていうかもう精神的にかなりおかしい(メンヘラ)けどね。
でもねでもね、人間関係で地獄を経験した人(いじめとか虐待とか)が間違った考えを身につけてその後の人間関係で苦しみまくるの、そこから自分を変えて立ち直らないかぎり幸せになれないの、そんなの絶対おかしいよ!
おかしくないかもしれないけど、そんなのってないよ!辛すぎるよ!
私が何を言ってもやっても愛してくれ。無償の愛を注いでくれ。
そうでなければいっそ殺してくれ。
って思うよね。
【解説】
ここでもう少し苦しみが生まれるメカニズム、苦しみから脱却する方法を解説します(今の時点での考察なので、もっといい方法があるかもしれません)
私も生まれてきたときは「自分は愛される価値があるだろうか?」「誰かに嫌われてしまうのではないか」みたいな対人関係の不安を持っていなかったでしょう。
記憶はないけど、多分そうだったと思います。そして全ての人間がそうだったのではないかと想像します。
つまり誰もが「全ての人を愛せる状態」で生まれてくるということです。まさに無敵の状態ですね。
しかし親子関係やいろんな人間関係で傷つくことがあると、「人と関わると苦しむ=他人が怖い」「期待にこたえないと捨てられてしまう」「自分は愛される価値が無い」等「自分を守る考え」を身につけていきます。あくまで後天的なものですが、人といて不安になりやすくなります。
※小さい時に身につけた考えというのは無意識的なので自分では気づきにくい
そうした過去の不安に支配されていると「今目の前にいる人」が見えにくくなります。
今目の前にいる人は実際は自分を傷つけようと思っていないのにもかかわらず、自分の中の不安によってその人を警戒し、逃げ出してしまう。愛し、愛される可能性があるのにその可能性を閉ざしてしまう。
そして
「やっぱり人とうまくいかない」
という考えを強化していく。
↓
親子、友人、恋愛、学校や職場、あらゆる場面で傷つくことが多くなる
↓
ますます自分の身を守ることばかり考えて人と関わるのが難しくなる
↓
苦しい人生から抜けられない(中毒、依存症、自傷、精神疾患等のリスクうなぎ登り)
というループになってしまう。
どうすればそこから抜け出せるのか。
一番楽なのは周りの全ての人が自分が何を言ってもやっても愛してくれることで人から身を守らなくていいんだ、と安心を育てることだと思うのですが(不安からの脱却)
現状難しいことが多いのでパス。
ので
①まずは休み、エネルギーを充電する
②回復のためのあらゆる手段を探し求める
③人との関わりを増やす
④自分の中にある自分を苦しめる考えを手放す、成長する
という感じが私の辿った道のりですので、ご参考までに。
①については苦しんできた人は今まで散々頑張ってきて疲れ果てている人が多く、まずは休む、エネルギーを回復させる必要があると思うので。
自分を変えよう、苦しみから抜け出そう、と思うと自責傾向のある人は自分を責めてしまい、回復が遠のく恐れがあります。
まずはしっかり休み、ありのままの自分を見つめるエネルギーを充電しましょう。
「人非人でもいいじゃないの。私たちは、生きていさえすればいいのよ」(
byヴィヨンの妻)ぐらいの気持ちで。
②については自分の生き方を変えるのは一人では無理で、きっかけとなる出会いが必要になるからです。
人と出会うのもしんどい時は、本やインターネット記事など一番楽にアクセスできる、お金のかからないものから始めるといいと思います。
自分の悩みの解決になりそうなありとあらゆる情報を集めてみましょう。
精神科、カウンセラーやセラピストなど、心の問題を専門に扱っている人たちに頼るのもいいと思います。
修行が苦にならない人は瞑想、禅、ヨガなども効果があると思います。
③対人関係の悩みは人と関わることでしか最終的に解決しないと思います。この段階で注意したいのは、自分を助けてくれる存在に依存してしまうことです。
私は依存を体験して「依存したまま生きるくらいなら死んだ方がマシだ」と思いました。それくらい誰かに依存して生きることは苦しいです。
それに高額な自己啓発セミナーやスピリチュアル、怪しい新興宗教など、依存心が利用されてお金を巻き上げられることがあります。
自分が救われたいと思っても、むしろそういう時こそお金が必要なものには手を出さないのが無難です。
自分が安心できる、あるいは自分が好きだ関わりたいと思う人をできるだけ増やしていくことが大事だと思います。
④ある意味ここが一番大事なのかもしれません。ありのままの自分を見つめる→自分の中にある自分を苦しめているもの(不安や罪悪感など)に気づく→自分が本当に望んでいることを知りそちらに向かって踏み出す、というふうにならない限りどれだけ人の助けを借りても、変わることは困難でしょう。
そのためには徹底的に自分の中を見つめて、向き合う必要があります。
妄想や思い込みから離れ、客観的になるということです。
あとは①~④をひたすら繰り返します(順番は前後してもいいし、並行してやってもいい)
あと、公的支援に頼るのもいいと思います!障害者手帳とか自立支援医療とか。
人と関わるのが苦手な人は人の助けを借りるのが苦手ですが、とにかく助けを借りれるだけ借りるのが近道だと思います。
私は2013年にうつ状態になってから自分と向き合うようになって、4年かけてようやく自分の中にある苦しみのメカニズムに気づくことができるようになりました。
焦らず、疲れたら休みながら、自分なりのペースで進んでいくことが大事だと思いました。
何度ももう大丈夫、もう落ち着いた、と思ってはガタガタに崩れながらもゆるやかに回復しつつあります。
少しずつ自分が成長していくのはやはり嬉しいし幸せです。
人のことをちゃんと考えられるようになって、人と関わるのもだんだん楽になってきました。
回復の目安→人間関係で苦しまない、むしろ幸せになる
だと思っています。
それは誰とでもうまくやれる、コミュニケーションがうまくなる、というよりはいかに自分らしく生きられるか、人のその人らしさを受け止め、一緒に生きていく幸せを知るか、というところにかかっていると思います(調和、ワンネス、すべてはひとつ)
最後に
自分にとって一番大きな転機になったのは苦しみを人や何かのせいにするのをやめた時でした。
親のせい、他人のせい、環境のせい
にしていてはどこにいても、何をやっていても苦しみがついて回りました。
自分を苦しめる間違った考えを持つようになったのは自分のせいでなくても、自分が「今」どう生きているのか、これからどう生きていくのか、というのは自分が選択していることの結果なのだ、ということに気づかないかぎりどうしようもないのだ、ということに気づいたのです。
すべての知覚ある存在は、罰と結果の違いを知っている。
罰は人工的に創られた結果だ。結果は自然のなりゆきだ。
罰は、罰される者とはちがった価値観をもつ外部の誰かが強制する。結果は自己が内部で体験する。
罰とは、それは悪いことだという他者の決定で、結果とは、それはうまくいかないという自分自身の体験だ。意図した結果を生まないという体験だ。
言い換えれば、罰を受けてもなかなか学べない、「誰かが自分を罰したからだ」と思うからだ、ということですね。
結果から学べるのは、自分がしたことだと思うからでしょう。
ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との友情』下巻より
この文章が必要な誰かに届きますように。
幸せになるきっかけとなりますように。